2021年03月13日

コロナ禍と労協法制定から、未来社会とその研究の展望を探る

コロナという抜き打ちテストでより弱者にしわ寄せを強いている日本社会

古村伸宏 全体として「働く」と「働き」とは、似ているようだが違う。それをベースに4点ほど話したい。まず、コロナ、そして、パンデミックが発せられて1年が経ったが、社会がどうなっていたのか。そして、どうなっていくのかが問われている。パンデミックを生きる指針から1年、社会がどう見えたのかをお聞きしたい。

藤原辰史 パンデミックの問題について、1年前に蛮勇を奮って書かせてもらったのだが、いままで起きてきた人々の苦しみ、悔しさといった状況がパンデミックによって、より人々の目にさらされるようになった。そして、隠されてきたことが改めて浮き彫りになった。

Satoshi-Ukai.jpg つまり、これはフランス哲学の研究者、一橋大学の鵜飼哲(1955年〜)名誉教授の言葉を借りれば「どのような社会を作りたいか」の抜き打ちテストであった。コロナによって赤点を取ったり、ギリギリ点を取った社会があったわけだが、苦しいところに矛盾をしわ寄せをしてきた社会はさらにそれを見せたし、こぼれた人を救う社会はますますそれを伸ばしている。

 私自身は1年を経て、パンデミックで病気に苦しむ人はもちろん、経済的に生活苦に陥っている人、ひとり親世帯の方、そこに無理を強いてきたのだが、より深刻になったと。自殺率も女性が高くなっているし、子どもたちも生きづらさを感じていると見ている。

古村伸宏 隠されていた人間の卑しさ、日常の危機を顕在化させる1年だったと思う。コロナ以前からしんどい状況に直面していた人たちがより露わになったと。けれども、価値づけが曖昧であったエッセンシャルワーク、私はこの言葉には違和感があるのだが、マネー面で評価が低い仕事が実は貴重だと感じる人が増えてきたことは希望だと思うのだがどうだろうか。

メンテナンスの意味を改めて浮き彫りにしたコロナ禍

藤原辰史 エッセンシャルワークについて事前に古村さんと議論していて、実は私も違和感をいだいた。それは、統治者目線だからだ。「私たちに欠かせない仕事なので働いていてください」という語感があるからだ。ご指摘のとおり、そういう気がする。私はこれまで人間社会と生命とが直接結びつく「蝶番」の部分、食と農を研究してきたのだが、食べることとはこんなにおもしろいのかとか、掃除とはこんなに楽しいのかとか。つまり、毎日繰り返されていたことが発見されたと。

2022051502.jpg そこで、私は「サステナブル」がやはり上から目線なのであまり好きではなく、それを「メインテナンス」という言葉を使って表現したい。メインテイン、維持するという捉え方がいまこそ明らかになってきたと。「分解の哲学」(2019)青土社で書いたのは、掃除、掃き清める仕事の重要性、モノを集めて有用なものにわけるという、掃除のおじさんの意味を哲学的に説いたことである。感染リスクが高いので、この仕事の価値がいろんな言葉で言われるようになった印象がある。

古村伸宏 我々は、緑のメインテナンス、建物のメンテナンス、とりわけ、病院から始まっている。そこで、先生の本でゴミや掃除の仕事がでてきて非常に勇気づけられた。やってみて大事な仕事だと実感できるのだが、周りから認められることはなかったと。それが、ある意味で価値転換が起こる可能性を感じている。

2022051503S.jpg 掃除の仕事をしている中で1987年、88年頃に病院のゴミを集めていて注射針が多いことに直面する。そこで、捨てるゴミの向こうに人がいるというキャンペーンになった。食べ物ひとつとってもどこから来て、どうして口に来たのかが見えないことが仕事の価値を歪めている。先生の最新著作が「縁食論―孤食と共食のあいだ」(2020)ミシマ社。そこに「縁」の文字を込めた意味を聞きたい。

縁は弱い目的での窮屈ではない緩やかな空間を創出する

藤原辰史 「縁」は日本語にしかない微妙なニュアンスを含んだ言葉である。孤食だと孤立で、共食だと強いメンバーシップを感じる。その中間。子ども食堂や大人食堂。実は、ほどほどにアクセスできる食べる場所は現在も歴史上もものすごくある。これを「縁」と呼ぶといろんなところに存在することがわかる。会社でも「社訓」では儒教的なことが残っているが、「縁」は「ふち」とか「へり」と読める。これは外との接触点である。具体的でわかりやすいのは「縁側」である。私は奥出雲の縁結びの神の地域の出身だが、お菓子がでる。それは縁側でやる。座っていると近所の人が集金に来る。それが接続の場になる。食べ物を介して食べる人と作った人がつながる。それは、垂直的な関係にならへん。

Yuji-Genda.jpg 東大の玄田有史(1964年〜)教授が書評してくれたのだが、いろんな縁があると。「支援」は支援するとなるのだが、これを「ゆかり」にすると「上から与えますよ」ではなく、参加している感じになる。そこに可能性を感じた。また、キーワードは「強い目的」と「弱い目的」である。強い目的とは、例えば、病院には「あなたを治療する」という強い目的があるが、注射針を回収するのは病院という空間を誰も傷つけない場にする「弱い目的」がある。そこには、その目的に付随して、磁石をいれると砂鉄が吸い付くように窮屈ではない社会ができるのではないか。

生産性と効率化が資本主義の原則でそれが労働を商品化した

古村伸宏 協同とはなにかを考えてきたのだが、同一の価値基準、「共」が大事だということがあったのだが、同士的・同盟的なつながりではなく、ゆるやかなつながりが、重要なテーマになるのではないかと改めて思った。これを作る人と食べる人におきかえると、「分業」でいうように仕事はきれいに連鎖せず入り混じっていると。けれども、専門性が入り込むと境界線を明確にすることで分断が引き起こされていると感じた。縁側はフォーマルな玄関でもなく、非フォーマルな勝手口でもない。そして、今の生活様式が縁的な空間を廃してきたのではないだろうか。

2022051504.jpg藤原辰史 これを理解するには何段階かの歴史があるのだが、まず19世紀に資本主義が登場してくるのだが、それは、生命力や自然の力を商品化して、できるだけ頑張らせて、それを蓄積して投資に回して資本を回転させるものだ。微生物や土壌の力を回復させ、その余剰で回転させていくというのが資本主義の私の抱くイメージである。すると商品になりやすいものを効率的に作って回転を早めようとする。労働もシンプルで無駄なくやっていく。それが分業である。まず、労働からおしゃべりを奪う。そして、ご飯を食べながら働くことも駄目にしていく。テイラー主義。つまり、米国の労働管理法が分業をもたらした。「ナチスのキッチン」(2016)共和国を書くときに、読んだのだが、これが、めちゃくちゃおもしろい。

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 フレデリック・ウィンズロー・テイラー(Frederick Winslow Taylor, 1856〜1915年)がいままでの中小企業の職人の仕事を観察してみると、金槌を打っていると子どもが遊んでくるとか、弟子が来たので無駄話をするとか、お腹が減ってくると飲んだり、お客が来ると仕事を止めると。これでは「やりがい」を搾取できないので、まず、シンプルに休憩時間と労働時間を作ろうと。そして、この武器は私も受験勉強のときに使ったストップウォッチである。漫画は後で読もうと時間を管理する。そして、純粋な労働であるほど商品化しやすい。この19世紀が「無縁」を作った。その度合にドライブをかけたのが2000代である。リーマンショックの頃から、農に関心が高まっているが、実際に外資の金融で働いていてもそこにはまったく面白みがないからである。湯浅さんの反貧困もキーワードは無縁社会である。それが自己責任論とガッチリ手を重ねている。そういう中で、何をいうとんねん。そんな人間強くないやん。おせっかい、小さなおせっかいに囲まれているから生きてこれたんやんと気づきはじめてきていると。無縁社会だとやばいなと。これは、売れないと思っていた本がいろんな人が書評してくれている。面白いなと。

食は自然とつながる行為〜人間は微生物が通過するチューブである

2022051505S.jpg古村伸宏 「食べるとはどういうことか: 世界の見方が変わる三つの質問」(2019)農文協で、パルシステムと「食べるとは何か」を議論されている。それが面白いのは、見えるはずのものがどんどん見えなくなっている。微生物の働きも見えない。また、それを想像する力があるのだが、それと見えるものなのに見せないのは分業の問題と重なっている。見えないと考えなくていい。例えば、排泄物は昔は肥溜めがあったがいまは流したらわからない。それが縁の価値を弱めることにつながっているのではないだろうか。

藤原辰史 パルシステムで話したのは食べるのは口に入れたら終わりはおかしいのではないか。これをまず問いかけてみた。一番美味しいものはなにか。これを聞くと関係性や思い出がでてくる。久しぶりに実家に帰って食べたお母さんの味噌汁という回答がいちばん多い。二番目はグローバリゼーションでは買ってくれたら終わりなのだが、食べることは、無限に自然とつながっているすごい行為だと。内なる自然を貫通する作業だと。我々はチューブなので皮膚にも常在菌がいるし、身体にもピロル菌がいる。びっしり住んでいる私たちという家は、排泄して微生物にバトンをしているだけの存在である。塩以外は全部死骸。すると注射針のようにつながっていることがわかる。肥溜めは畑に返すのだが、いまはお尻は都市の腸管、下水管とくっついている。それはまさに19世紀に欧州の都市で登場した下水道である。ビクトル・ユーゴ(Victor-Marie Hugo,1802〜1885年)はレ・ミゼラブルで、薀蓄が多いのだが、そのコーナーでいかに下水道が面白いかを書き、下水道をパリの腸(はらわた)だと言っている。京都で下水道を管理している人の話を聞いたのだが、最後に流すところは富栄養化しているので釣りのスポットであると。水は再利用しかしていない。そう考えていくと分業社会、そして、大学。科学の「科」は分けることなのだが、わけることがちゃちく見える。なんとか世紀におけるなになにという論文ばかりが多いのだが、やったことをたどる旅は、これまでの社会はタブーで蓋をしてきた。そこをちゃんとみていくと分解世界が広がっている。それが食べる世界をつまらなくしてきた理由だと書いた。

防腐剤・パッケージ・アイドルが不要な脱商品化と脱貨幣化

古村伸宏 聞けば聞くほど、「働く」と「働き」。これは似て非になる言葉。胃の働きと腸の働き。行為としての「働く」には意志や意図があるのだが、地球全体での生態系の働きがあるのに、その原理を逸脱したことにいまの矛盾があるのではないか。「強目的性」と「弱目的性」ということでで、ひとつの事例で「こども食堂」をあげておられるのだが、食べ物や食を巡って、商品化、効率化、作る、時間という言葉が気になった。「商品化」がいかに食べる行為を歪めてきたかのヒントになるのではないか。子ども食堂では、「この定食はいくらだ」にはならない。貨幣の原理からズレている。それと弱目的性とはどうつながるのだろうか。

藤原辰史 凄い問ですね。ズームは逃げられない。商品化が何をもたらせたかを考えるのはいい思考実験である。例えば、パッケージにくるまれたシリアルは商品になっているので、ある程度、質が変わらない、質の安定、いうまでもなく腐らない、腐敗しないことを求められる。また、流通過程に乗らないと商品にならないので、クッション材や防腐剤。さらに、食べ物に欲情しなければならない。そこで、おにぎりに「新潟県こしひかり」と書くことで欲情する人がいる。そういう社会になっている。つまり、商品化には欲情システムが加わらないといけない。そこでパッケージが必要となる。さらに、アイドルがテレビで美味しいと言ってくれると。欲望は間を挟む方が強くなる。精神分析の先生がそれを教えてくれた。三角関係で好きだという気持ちが高まると指摘したのが夏目漱石だが、そのとおりである。つまり、食の商品化は、本来は必要がない防腐剤とパッケージとアイドルが必要になる。これは不自然である。遠くまで運べて分業化があるのだが、それをまた戻すとイチゴを手渡す人は農家なのでアイドルもパッケージも防腐剤もいらないとなると無駄が省ける社会になる。

 日本では提携、この言葉は英語でも広まっているが、人間的な関係性だけで欲望していいとなってくる。すると、売るという強い目的性ではなく、美味しそうだなという友人の声とかいろんな物があったほうが面白い。いまの資本主義は、欲望の発生の仕方がまことに貧困である。古村さんのボイスや表情があるからこそいまの対談も盛り上がっていける。相手がロボットであったならばそうはならない。

生産ではなく死と解くから世界を見直してみる

古村伸宏 自分の家の庭でトマトを作っている。それをもいで食べる。すると自分とトマトの関係が明確で手応えがあり、そして、物語もある。市場に流通するものと自家用のものを手べる。鹿児島では鶏まで潰す。山口のワーカーズコープは田んぼで均等にわって食べる米を作っている。それは市場にも流れていかない。それが商品にされていない本来の食べ物であろう。防腐剤、パッケージ、アイドル。それが問われていると思う。そこで、子ども食堂は商品ではないが、フードバンクの農業版かと。商品ではないものを弱目的性で食べると面白いと思っている。それは農業のあり方にも関係してくる。

 人間は腸管だという話もあったのだが、「分解の哲学」では掃除のおじさんから読んだのだが、世の中で不必要と言われているのが、今一度見直される必要があると感じた。その問題意識。作るではなく分解する、解く価値について話していただきたい。

藤原辰史 抽象的にいうと「分解の哲学」は人文学の課題、労働の問題と環境の問題を統一して論じる論理はないかと。マルクスは労働に強かったが、農業には弱かった。斎藤幸平氏がいうように晩年はある程度、環境にも踏み込むのだが、労働はともかく、そちらは弱かった。そして、市場経済では絶対に生み出せないものは地球という循環である。それが、市場社会には必要である。そして、労働力だが、マルクスは労働者と労働力を分けたのだが、それ(労働者)は、食べ物と地球しか作れない。それを卑近な例から考えると東京に4年住んでいたのだが、品川に住んでいたと。その住宅は人の出入りが激しい公共のマンションであったが、掃除の仕事をしている人がいて東北の岩手出身の人だったが、子どもたちに人気だった。なぜかというと、ダンボールのゴミを恐竜とか車にカッターで変えて子どもにプレゼントしている。子どもの誕生日にダンボールのケーキを持ってくる。お菓子とかキャラメルが入っている。あれは何かを説明したいと。そこで、哲学的に掃除を問おうと思った。

 そもそも彫刻も作るのではなく木を削って鳥を浮きぼらせる作業だし、米も土壌を耕して有機物を分解させるものである。つまり、かなりの作業が分解である。デスクワークもゴミが回収されない限り死んでいく。昔はばた屋が歩いていた。子どもを生むことを生産力と与党が言うのだが、子どもも生産といってしまう。けれども、子どもも受精卵として誕生してからは、ひたすら死に向かって生まれてくるだけである。生産が資本主義の言葉がつまらなくしてきたと。クジラが死んだ後は鮫が食い荒らし、それを小さな魚が食い荒らし、最後に微生物が食べて海に還る。死をめぐって生命が協演している。そういう社会である。なんでも作れ、積み上げろと命令する社会に風穴を開けられる。

Susumu-Ohno.jpg 時間というものも、つながっていくものではなくて時間も「解く」ものではないか。実は、日本語の専門家、大野晋(1919〜2008年)さんが、「語源」を考えていたのだが、「時」という言葉は「解く」から来ているのではないか。大和言葉の「ほどく」とか「ほどこす」は、凝縮していくものが壊れていくことだと。そして、平安時代には、夜のトバリが夜明けに明るさがほどけていくときであると。日本語の原点を辿っていくと濃集するものとほどけるものの感性を見出していたのではないかと。こう見れば、労働の窮屈さがよくわかる。早く経っていく時間とゆっくり経つ時間を感じることが大事だと。

協同の語りを解きほぐすから見るとそれはタネを蒔くこと

Keiko-NakamuraS.jpg古村伸宏 いまの話を聞いていて二つ思い出したのは、中村桂子(1936年〜)さんが「米をつくる」というがそれは工業的な言い方だと。稲が育っているというのが、農業的、生物的だと言っていたこと。それと、先日、辻信一氏と対談をしたのだが、彼の師の鶴見俊輔(1922〜 2015年)氏がヘレン・ケラー((Helen Adams Keller,1880〜1968年)から「これからはアンラーン、リラ―ンすることになることですね」と言われたと。それを鶴見は「学びを解き直し、編み直す」と訳していた。つまり、これがないことが工業的に考えることがあると考えた。さて、ワーカーズコープの法律ができて、出資、経営(法律上は意見反映)と。それをどうやってやるのかと。最たるものが話し合い。本当に決まるのかと。40年やっていて完成がないと。そこで、分解の哲学とアンラーン、リラーンから、まず意見を表明する場があると。安心して言える関係がある。ただやってきて話し合ってまとめあげていく行為というよりも、一人ひとりを解いている場が話し合いではないかと。対話する中で自分を解いていると。理由を話せば話すほど人生観が滲み出てくる。まとまった結論よりもばらまいたタネ。それは、次の話し合いの機会でいつか芽吹くのではないか。そう思ったので、そうしたコメントに勇気づけを。

藤原辰史 遠いところから近づいていきたい。エコロジーの問題というと日本の悪いクセだが、森林を守るとか砂漠を緑化するとか木を植えていることだと思ってしまう。けれども、重要なことなのだが、そこに一足飛びに飛ぶのではなく、エコロジー社会の思想とは複数性にどう耐えるか。偶発性、偶然税にも耐えなければいけないということだ。ここで私がいきなりいなくなっても、この画面に別の人が登場するとか。その態度の持ち方である。けれども目的性が強いとそれが受け入れられないと。それが、「働く」から「働き」を受け入れることでもある。そして、次に考えるべきは、私たちはいろいろな紐で絡み合った存在であって、それが話し合いでたまたまつながると。ほどいていったときに出てくる様々な紐を救うことが意見反映であると。

Shinichi-FukuokaS.jpg「動的平衡」で福岡伸一(1959年〜)氏がいうようにまず捨てることから始まる。議論もそうであってまず解くことから始まる。例えば、議論に乗っていけない沈黙したロープCを地面に落としておく。それは漏れるということだ。それは将来的にはほとんどがタネとしてはでない。7,8割は出ないかもしれないが、それを蒔く圃場を残しておくと。

Stefano-Mancuso.jpg そこでエコロジーの話に戻ると、自然の社会は、機能する機械モデルではなく、基本的に漏れる。それも意図してではなく自然に出てくることが圧倒的に多いと。それに倣ったほうがいい。そこで、協同組合の問題になるのだが、イタリアの植物学者、ステファノ・マンクーゾ(Stefano Mancuso,1965年〜)は「植物は知性を持っている」と語っている。私はオカルトは嫌いなのだが、これは、科学的な本で、植物はオカルトではなく中央集権を打破するモデルであると。そして、漏れることが機能であると言っている。例えば、人間やライオンと違って地上部を切っても死なない。分散型である。そして、マンクーゾはそこまでは言っていないのだが、漏れるについてだが、植物は光合成をやっていて、作ったブドウ糖はエネルギーになるのだが、作りすぎたものを根に施して土壌内微生物にばら撒いている。土壌微生物が植物が直接吸収できないミネラルをギブアンドテイクしていると。そこで、イタリアに偉大な歴史がある。それが協同組合であるとマンクーゾは言っている。これは、私なりに納得ができる。捨てられているものが前提になっていると。

実践しながらの研究こそがテーマ

古村伸宏 今回のテーマは新しい社会デザイン。社会をデザインするということなので、最後にご意見を。

藤原辰史 研究所に勤めている。そこで、負けてられないと。そして、一点絶対にかなわないのは実践を研究者がやること。これはジェラシーを感じる。自分も研究者としては実践ができないので別組織を作るしかない。研究と実践が混ざっていると、どろどろ、それはかなり爆発力が生まれる。一歩間違えると安直な実践主義、現場が最高になってしまうのだが、それが、結びついているのがいいなぁと。社会デザイン。これまで運動をやってきた人に敬意を表するのだが、どうしても男の一代記、「おれの時代でなんとかする」になってしまう。けれども、社会デザインは次の世代にタネを蒔くことである。長い時間帯で見ていくことである。重要なのは、グローバル資本主義のスクラップアンドビルドに対抗するために戦う側も粉砕しようとしてきたが、ある社会をちゃんと観察して共同のタネと編み直すと。それが、古村さんが言っていることの私なりの解釈である。それは現場の批判がないと絶対に無理な研究である。エールというよりはジェラシーを込めて、本日のむすびに言葉に変えたい。

【画像】
鵜飼哲(ウカイ サトシ)名誉教授の画像はこのサイトより
玄田有史教授の画像はこのサイトより
フレデリック・ウィンズロー・テイラーの画像はこのサイトより
大野晋学習院大学名誉教授の画像はこのサイトより
中村桂子博士の画像はこのサイトより
福岡伸一青山学院大学教授の画像はこのサイトより
ステファノ・マンクーゾ、フィレンツェ大学教授の画像はこのサイトより
分解の哲学の画像はこのサイトより
縁食論―孤食と共食のあいだの画像はこのサイトより
ナチスのキッチンの画像はこのサイトより
食べるとはどういうことか: 世界の見方が変わる三つの質問の画像はこのサイトより

編集後記

2021031301.jpg 本稿は、2021年3月13日(土)に協同総研30周年記念イベントとしてオンラインで開催された京都大学人文科学研究所の藤原辰史准教授と協同総合研究所の古村伸宏理事長との記念対談「コロナ禍と労協法制定から、未来社会とその研究の展望を探る~実践と研究、そして分野を越境して~」の講演記録である。あくまでも講演を聞きながら叩いたメモなので正確さを欠く。動画もこちらから見ることができるので、正確な内容に関心を持たれた諸兄はこちらよりご覧いただきたい。
posted by 情報屋 at 13:00| Comment(0) | 講演会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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